長湯温泉は、もともと湯原温泉といっていました。湯原温泉の歴史は「風土記」の昔(8世紀半ば)に、『二つの湯の川あり、神の河(寒川、のちの芹川)に会えり』と記されているその「湯の川」にさかのぼると考えられています。
長湯温泉は古い歴史をもつ湯治場ですが、入湯施設が整い始めたのは江戸時代になってからのことです。宝永3年(1706年)8月、この地を治めていた岡藩主・中川候の入湯宿泊の便をはかるために、温泉を取り込んだ御茶屋が建設されました。これが初めての藩による湯屋・御茶屋の建設であったといわれています。
その後、安永10年(1781年)に、中川寛得軒の設計、岡藩の普請による新湯(御前湯)が作られました。これが現在の『御前湯』の始まりというわけです。
現在の長湯温泉を語る上でキーパーソンとなるのが、御沓重徳と松尾武幸という2人の人物です。
御沓は、千有余年の歴史と類まれな泉質を持ちながら、山間僻地であるため広く世に知られることのなかった長湯温泉を日本一の温泉として世間に宣伝することに一生をかけました。一方、九州帝国大学別府温泉治療学研究所に籍を置いていた松尾は、ドイツのカルルスバードで温泉治療学を学び、長湯温泉(炭酸泉)の効能を科学的に解明しました。長湯温泉の育ての親とも言うべき存在です。
御沓にとっては長湯温泉を広く世に知らしめるチャンスであり、松尾博士にとってはドイツでの研究成果を日本で試すことのできる絶好のチャンスだったというわけです。 御沓は、松尾博士に励まされ長湯観光協会を設立し、初めてパンフレットの作成に着手しました。そのパンフレットには、『東方日本の長湯温泉、西方ドイツのカルルスバード』という言葉が見られます。昭和初期という時代にもかかわらず、九州の山の中からドイツを見つめ続け、すでに世界を意識していたことがわかります。
また、御沓は長湯を日本中に知らしめるためにと、野口雨情や与謝野晶子などの文化人を長湯に招く一方、昭和10年には松尾博士の指導で、自分の経営する旅館の庭に、ドイツ建築の洋館である共同浴場を完成させるなど、ソフト、ハード両面で長湯温泉の発展に尽力しています。しかし、2人の努力は結実することなく、戦争により水泡に帰すときが来てしまいました。(敬称略)
昭和60年、入浴剤メーカー花王の炭酸泉全国調査により長湯温泉が「日本一の炭酸泉」(炭酸ガス濃度、温度、湧出量の3要素を総合して日本一)であることが証明され、御沓ら先人が叶えることのできなかった夢を引き継ぐ歴史的な挑戦が始まりました。
平成元年11月には、ふるさと創生事業の一環として「全国炭酸泉シンポジウム」を開催しました。炭酸泉の医療効果を論じる場に全国から400人の研究者が集い、「温泉療養の先進地であるドイツの温泉地に炭酸泉活用のノウハウを学んだらどうか」という提言がなされたのです。さっそくドイツ表敬訪問団(団長:故岩屋万一町長)が結成され、バーデンバーデンや炭酸泉で有名なバートクロチンゲン、バートナウハイムを訪れました。
さらに、平成4年には国際イベント「西洋と日本の温泉文化フォーラム」を開催し、ヨーロッパからの招待者を含む900人余りが集いました。
これらイベントの成功に後押しされ、以後、行政民間を問わず人材交流、文化交流が進み、これまで300人以上の相互訪問が実現しています。その展開はドイツワインの直輸入という経済交流にまで広がりを見せています。
これまでのソフト戦略とあいまって、飲泉文化定着のための飲泉場の建設などハード事業が進められ、平成10年10月には長湯温泉のシンボル施設として温泉療養文化館「御前湯」が誕生しました。ドイツとの交流で生まれた日独異文化の融合、そして半世紀以上も前から今日に及ぶまでの町づくりの歴史を集大成する施設ということがいえるでしょう。